OITA ART TRIP(大分県)大分のアートとカルチャーを巡る旅。~豊後大野市編~
大分ってどんなとこ?
そう聞かれたら、真っ先に「アートの街だよ」と答えよう。
未知の感覚を味わうアートも、日常の延長線上にある土着のカルチャーも、
アートが誘う、見たことない大分の旅へ。
今回は、豊後大野市をご紹介。
|自然を師とした彫刻家の一生。
朝倉文夫記念館 佐藤 摂子さんに聞く
『近代彫刻の父』『東洋のロダン』と称される、日本を代表する彫刻家・朝倉文夫は、現在の豊後大野市に生まれ、19歳の時、すでに東京で彫刻家として活動していた実兄の渡辺長男を頼って上京しました。兄の制作を手伝ううちに彫刻を勉強したいと思うようになり、努力を重ね、東京美術学校(現東京芸術大学)へ入学します。大学に通う途中に『上野動物園』があったため、朝倉はその道中でさまざまな動物をモデルにしながら粘土で塑像を作っていました。後に、朝倉の作品を称する自然主義的写実の原型は、こうした経験の積み重ねが影響しているのかもしれません。
当時、輸出用の動物の置物の型を作るアルバイトで安定収入を得ていた朝倉。持ち前のリーダーシップを発揮して、同じ学生の立場でありながら学費に困っている友人が居れば学費を支援するほどだったとか。
大学卒業後は、24歳で現東京都台東区に自宅兼アトリエを新築。大学へ行けなかった芸術家の卵をアトリエに住まわせては、自身の制作のかたわら指導にあたり、これが『朝倉彫塑塾』の発端となりました。また母校の『東京芸術大学』の教授となり、後進の育成に励みました。「1日土をいじらざれば、1日の退歩である」という言葉を残している通り、朝倉自身も非常に努力家で、日々彫刻と向き合い続けた努力の人でもあります。そうした甲斐あって、当時の人々にとっては、世で名を馳せて朝倉に銅像を作ってもらうことが一種のステイタスのようになっていました。
また、愛猫家として知られる朝倉は、「猫の野性味のある媚びない姿勢や、自由気ままな振る舞いをするところを特に好きだ」と語っています。作品のモデルという名目で、多いときは十数匹の猫たちと生活をともにしながら、骨格や筋肉、質感などをつぶさに観察していたそうです。初期から晩年まで、ライフワークのように猫をモチーフとした作品を制作し、1964年の東京オリンピックに合わせて『猫百態』展を企画しましたが、開催の年に病魔に襲われ、約50体の作品を遺して他界しました。
『朝倉文夫記念館』には、その内の13体のほか、朝倉が手がけた多彩な作品が展示されています。生き物や自然のあるがままの姿を愛し、その本質を捉えた朝倉の作品は、私たちの心にすんなりと馴染み、それぞれの心の中に温かな灯を灯してくれるようです。
朝倉 文夫さん
1948年、彫刻家として初めて文化勲章を受章した朝倉。私生活では「日本人の体型には、着物の方が似合う」と、自ら袴を縫ったり、家族の着物を見立てたりしていたとか