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【インタビュー】Fuku Spo – アビスパ福岡/杉山 力裕

GK 杉山 力裕(背番号23)

サッカーと歩んだ、これまでの軌跡。

11月5日。

来季も日本最高峰のカテゴリーでプレーできることが決定した。

クラブが歴史を塗り替えていく中で、第2の人生を歩んでいくと決意した杉山力裕。

彼がこれまで辿ってきた軌跡を追う。

 

※12月号掲載分 (取材・文/岩井咲里香 撮影/山辺学)


正直、キーパーが嫌でした。

 

’93年、Jリーグが華々しく開幕した。

 

相手を巧みに交わすドリブル、迫力のあるシュート、そして思わず真似したくなるゴールパフォーマンス…。テレビの中で繰り広げられる光景に興奮し、サッカー選手を夢見た少年も少なくないだろう。当時5歳の杉山少年もその一人。画面の中で輝く“キングカズ”の背中を、羨望の眼差しで見つめていた。

 

 

小学生になると少年団に入り、FPとしてサッカーにのめり込んでいった。3年時、他の子より身長が高かったこともあり、GKをやってみることに。「正直、キーパーが嫌だったんですよね。全然ボールにも絡めないし…(笑)」。

 

そんな彼が、同年に静岡選抜のセレクションにGKとして合格。それでもGKを好きになれず、少年団ではFPとして、週1~2回の静岡選抜ではGKとして練習していた。

 

 

中学に上がる頃、彼に分岐点が訪れた。

これから、FPとGKのどちらでキャリアを積んでいくのか決める時が来たのだ。

 

「それまではフィールドが好きでしたが、小学生の頃は体格が大きいだけでできてしまうことが多くて、キーパーの方が全然難しいなと。難しい方を選んだ方が面白くなるんじゃないかと思いGKを選びました」。

 

チーム内で一人だけ違う色のユニフォームを纏える特別感、できないことが目に見えてできるようになる達成感が、徐々に杉山少年を魅了していった。

 

 

そして、地元の名門・静岡学園高校へ進学。

 

入学時にはプロを意識していたが、ここで厳しい現実を目の当たりにする。「入学してすぐ3年のトップチームに入れてもらったんですけど、全然試合に絡めず。1年生の時から試合に出るスーパールーキーしかプロになれないと思い込んでいたので、『俺、絶対無理だ』って」。

それでも、必死に食らいついた。朝4時半に起床して、5時には家を出発、自転車で40分ほどの道のりを経て、6時から朝練。学校の授業が終わったら21時半まで練習して23時前に帰宅。そんなサッカー漬けの日々を過ごした。

 

3年時には正GKの座を掴み取り、キャプテンも務めた。夏に川崎フロンターレの函館キャンプに参加した後、正式にオファーを貰い、彼のプロキャリアがスタートした。

 

“人”との出会いが今の自分を作り上げた。

 

川崎に入団後3年間、公式戦に出場できなかった。

 

単年契約だったため、いつ契約を切られるか怯えながらも、ひたすら先輩の背中を追い続けた。その中には日本代表GKの川島永嗣もいた。

 

「永嗣さんはピッチの中で圧倒的な存在感があったし、本当にストイックでした。練習中も研ぎ澄まされていて、試合と全く同じテンションなんです。だから、練習中にシュート決められて本気でキレちゃうこともあって(笑)。練習終わりに、よくご飯に連れて行ってもらったんですけど、そろそろ帰ろうって時に、永嗣さんが『今から英会話行ってくる』って言うんですよ。当時から海外を意識して生活していて、偉大さを感じました」。

 

 

そして、このクラブでは後に“戦友”と呼び合うこととなる西部洋平選手(カターレ富山)との出会いもあった。川崎、その後移籍する清水で長いことライバル関係だった二人。

 

「ライバルですが、ギスギスした感じは一切なくて。1つしかないポジションを争うことになるので常にプレッシャーもありましたが、ネガティブにならずに済んだのは、洋平さんの人柄のお陰です。僕が試合に出るときも気持ちよく送り出してくれる人でした。だから、アビスパに来て自分が試合に出られない状況が続いても、ネガティブな部分は見せないようにして、チームの雰囲気をよくすることを考えられたんです」。

 

 

’15年、プロ入りして9年間過ごした川崎を離れ、地元・静岡の清水エスパルスへ移籍。幼少期から憧れていたクラブでプレーできることは、彼にとって格別だった。

 

その年はキャリアハイとなるJ1・24試合に出場したが、チームはJ2へ降格。翌年には昇格を果たし、自身も再びJ1で戦う準備をしていた。

 

 

そんな中で、彼に声を掛けたのがアビスパ福岡だった。

しかし、一度はそのオファーを断ったという。「自分の中でJ1で勝負したいという気持ちもあったし、福岡という場所にあまり縁がなくて…」。

 

それでも、福岡のフロントは諦めなかった。断った3~4日後に、もう一度話がしたいと連絡してきたのだ。

 

「そんな熱心に誘ってくれるチームがあるのかと思って、話を聞いてみることにしたんです。『もう1度J1に上がるために力を貸してほしい』と言われて、当時の井原監督からもお電話をいただいて…。フロンターレで一緒だった實藤(友紀)選手がアビスパでプレーしていたので、チームの雰囲気なども聞いたうえで移籍を決断しました。」

 

 

このクラブで辞めたいと思った。

 

プロキャリアをスタートしたクラブでもなく、地元のクラブでもない、「アビスパ福岡」で引退したいと彼は語った。

 

“引退”の2文字が頭をよぎったのは昨年の夏。アキレス腱を断裂し、このまま辞めることも考えたという。

 

そんな時、ふと目にしたサポーターのメッセ―ジやゲーフラ。

その熱い応援が「もう1年頑張ってみよう」と、彼を奮い立たせた。

 

「あと1年頑張って、結果が出なかったら辞めようと決めていました。試合に出ている村上選手や永石選手、山ノ井選手もカップ戦に出場するようになり、彼らの成長をこの目で実感したので、もう自分の出る幕はないかなと。彼らにアビスパのゴールを任せても大丈夫だと思えたので、決断できました」。

 

 

最後までクラブのことを第一に考えた。彼がここまでアビスパを愛する理由とは。

 

「こんなにいいチームと巡り合えることはないと思うんです。’20年にシゲさん(長谷部監督)が来て、大幅にメンバーが変わりましたが、サッカー面だけでなく人として尊敬できる選手ばかりで。個性的で芯もあるけど、周りをリスペクトできる。試合に出られない選手は不満もあって当然ですが、表に出す人がいない。出ている選手をサポートして、次の試合で自分が出るために考えて行動できます。出ている選手も、彼らの気持ちを背負って戦ってくれる。そんな最高のメンバーだから、ここで引退したいと思いました」。

 

 

引退コメントに「転職します!」と書き残したが、何をするかはまだ決まっていない。「サッカーを辞めて違う職に就いた人の話も聞いてみたい」とも話す。どんな道に進もうと、彼がこれまでチームを見守ってきたように、杉山力裕という一人の人間が歩んでいく道を見届けたい。

 

〈PROFILE〉

杉山力裕

ゴールキーパー 背番号23

生年月日 1987年5月1日

身長184㎝ 体重76㎏

出身地 静岡県

’06年に静岡学園高校を卒業後、川崎フロンターレへ加入。’15年には地元の清水エスパルスへ移籍し、’17年にアビスパ福岡へ。選手会長として積極的に社会貢献活動に参加するなど、ピッチ内外でクラブに大きな影響を与えた。’22年10月、今シーズン限りでの引退を発表した

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