【ちはやのわ】ますます賑わう 千早に注目!Vol.1 前編
ちはやのわ
時代と共にカタチを変えながらも、地域のコミュニティハブとして
たくさんの“わ”を広げてきた『ガーデンズ千早』の周年を記念して、
同施設を取り巻く千早のまちの歴史や魅力をフィーチャーします!
時代と共にカタチを変えながらも、地域のコミュニティハブとして
たくさんの“わ”を広げてきた『ガーデンズ千早』の周年を記念して、
同施設を取り巻く千早のまちの歴史や魅力をフィーチャーします!
1965年(昭和40年)のオープンから56年間、東区千早のランドマークとして親しまれてきた『スポーツガーデン香椎』が閉店。そのスピリットを受け継いで誕生した複合施設『ガーデンズ千早』のオープンから丸3年、その隣に併設された『ちはや公園』のオープンから丸2年が経つこの春、3号線に面した『スポガ香椎ボウリング場』の跡地に、新しい複合施設がオープンする。駅前にはマンションが立ち並び、福岡市のベッドタウンとしてますます賑わう千早エリア。今月号は、そんな千早のまちの魅力や発展の歴史について、深堀りしてみたい。
千早のまちはその昔「海」だった!
金融機関ARUHIが主催する『 本当に住みやすい街大賞2023in 福岡』でも1位を獲得し、注目を浴びている千早。JRと西鉄の両方が乗り入れる『千早駅』を中心とした再開発により、マンションやショッピング施設、医療機関や教育機関などが、駅前に集結。交通の利便性の高さと良質な住環境を併せ持つ〝福岡市の副都心〞としての発展が、評価された形だ。
そんな千早のまちの前身となる「多々良村大字千早」が誕生したのは、1941年(昭和16年)のこと。後に福岡市へ編入される1955年(昭和30年)まで、糟屋郡に属していた。明治時代後期に撮影された写真で、現在の千早周辺を見てみると、3号線のある辺りまで、かつて「香椎潟」と呼ばれていた遠浅の入江が広がっている。そう、千早のまちはその昔「海」だったのである。その後、昭和初期まで続けられた埋め立てによって生まれた広大な土地には、石炭の集積所ができ、戦時中は飛行機をつくる工場があったという。戦後、1959年(昭和34年)からは、全国から集まる貨物車の仕分けを行なう「香椎操車場」として利用された。折しも、高度経済成長期。東京オリンピックの開催や、東海道新幹線が開通するなど、日本人の暮らしに大きな変化が訪れた時代だ。
一大レジャー施設 スポーツガーデン香椎誕生
1970年(昭和45年)代になると、人々の関心は、スポーツやレジャーなどの余暇を楽しむことに向けられた。そのトップを走っていたのがゴルフ業界だ。そこにいち早く注目したのが、『ガーデンズ千早』の生みの親、『高橋株式会社』。当時はまだ、特別階級だけが楽しむスポーツだったゴルフを、「一般の人が楽しめるものに」と考えた創業者・高橋川彦さんが、地域の人々の健康増進かつ個人でも楽しめる娯楽施設として、1965年(昭和40年)に『西日本ゴルフセンター』を千早の地にオープン。博多湾を望む打席や、クラブハウス内にレストランやロッカールーム、浴室などを併設した、近代感覚あふれる施設だったという。その後の、1967年(昭和42年)には、西日本初の流れるプール『西日本リバープール』をオープン。1970年(昭和45年)には、ビリヤードやサウナ、ボウリング場を併設し、〝家族で余暇を楽しむ〞をコンセプトに『スポーツガーデン香椎(当時は「香椎スポーツガーデン」)』をオープンさせた。
1981年(昭和56年)には、1年中楽しめるアイススケート場を設置。九州最大の室内リンクを設け、フィギュアスケートやアイスホッケーの選手の育成にも力を入れるなど、レジャーブームを追い風に時代のニーズに応える事業を次々と手掛け、地域の人々の健康増進やQOLの向上に貢献。『スポーツガーデン香椎』を一大レジャー施設に成長させていった。
平成に入り香椎操車場跡地の再開発がはじまる!
1984年(昭和59年)には、貨物輸送の減少に伴い、「香椎操車場」が役割を終え、その跡地の開発が始まった。1993年(平成5年)〜2012年(平成24年)にかけて行なわれた「香椎副都心土地区画整理事業」では、操車場の跡地を含めた66.3ヘクタールを対象に再開発が進み、現在の千早のまち並みが形づくられていった。操車場によって分断されていた東西のまちを結び、住民の生活に欠かせない千早のシンボルであった「千早陸橋」は、この区画整理事業に伴い、2004年(平成16年)に撤去。現在は、千早中央公園に、陸橋の一部を使ってつくられたモニュメントとして残され、まちの記憶を後世に伝えている。
後編に続く…