あの人の人生履歴書|芸人 ダイノジ [1組目]
七転八倒の30年。
転がる石のようにたどり着いた福岡で、
2人は今日もサンパチマイクの前に立つ。
親のすねがなくなるぐらい、かじりまくっていた若手の頃。
結成から30年目を迎える50歳のお笑いコンビ・ダイノジが福岡よしもとへ移籍してきたのは、今年4月のこと。NHKの『爆笑オンエアバトル』で頭角を現し、結成8年日で『M-1グランプリ2002』決勝に進出した若手時代について、「なんの根拠もなかったのによく辞めなかったな」と2人は笑う。
「5年目まで仕事は『銀座7丁目劇場』の舞台だけ。そこから極楽とんぼさんが売れて、次にロンブーとココリコさん。品川庄司と僕らがその次みたいな扱いでライバル関係だったんですけど、僕らは間違った尖り方をして殺伐としていましたね。嫌な野郎でした。品川庄司とも殴り合いをしたりして。お金に関してもマジでなにも考えてなかった。借金だらけで親のすねをかじりまくって。でも、辛いことも多かったけど楽しかったんですよね」(大谷)
「『オンエアバトル』ではどんどん受かっていったんですけど、当時は反響がまったくわからなくて。ただ今思えば僕らが出た『M-I』もオンバト出身者ばかりでしたね。僕らも調子にのっていて、ノリでOK!OK!って」(大地)
それから芸人人生が軌道に乗り、2人はお茶の間の人気者に……とはいかなかった。ゴールデンのバラエティ番組からなかなか声がかからず、’03年開始の人気番組『エンタの神様』ではネタ見せから先に進めない。共に歩んできた仲間たちにはいつの間にか差を感じていた。次第にコンビ仲が悪化し、互いに違う方向を向いていたタイミングで大地さんが大谷さんを飲みに誘ったことがあったという。
「あれはまさに福岡に来ていた時でしたね。大谷さんが酒飲めないから『豚骨スープ飲もう』って誘って『元祖長浜屋』行って。その時にもう一度劇場からやろうって話したのかな」(大地)
すると、今のダイノジにも繋がるような音楽関連の仕事が徐々に増え始めるのだ。
「君らはかわいそうな時が面白い」。だから「辛い」「苦しい」は飯の種。
‘04年、大ブレイクしていたケツメイシの楽曲『涙』のMVに、苦境の中で奮闘する若手芸人役として出演。「あれはうちらそのもの。元祖『だが、情熱はある』ですよ」と大谷さんが話すMVの反響は大きく、’06年と‘07年には大地さんが世界エア・ギター選手権で優勝。 ついに脚光を浴びる時が来た、のか?
「いやいや、メディアに関してはその後も上手く出ていけなくて、ローカルのレギュラーがあるぐらいできつかったですよ。’05年からDJを始めるんですけど、半年に一回ロックフェスに呼んでもらって、DJで出るとめっちゃ盛り上がるんです。それでなんとか『もう少し頑張るか』と延命していた感じで。知名度が上がった大地に嫉妬して足を引っ張っていた僕はいよいよ辞めようかと思っていた時に、『めちゃイケ』の新メンバーオーディションに引っかかるんです。結局ダメでしたけど、その後はラジオの仕事が来るようになって。誰かしらが絶対助けてくれるラッキー芸人ですね。『めちゃイケ』ブロデューサーの片岡飛鳥さんに言われたのは、『直前までレギュラーにするつもりだったけど、落とした方がウケると思った。君らはかわいそうな時が面白いから、”かわいそう”を武器に戦っていってね』って。おかげで今もグリーン車じゃなくて普通車ですよ。福岡に来て最初に詳しくなったのも『チャリチャリ』です」(大谷)
そして、たどり着いたのは故郷・九州。「いまだに福岡の芸人たちに馴染んでいない」、「今日、勇気を振り絞って飲みに誘ってみようかな」と話すダイノジは、福岡のお笑いのポテンシャルをどう感じている?
「福岡はマジでみんな才能あると思う。文化芸術が全国でもトップクラスの街でちゃんと育っている感じがするし」(大谷)
「福岡の芸人からしたら、俺らは転校生なのに担任の先生ぐらい歳の差があるもんな。まずは仲良くなって、後輩じゃなくて友だちを作りたい。友だちがいなさすぎるから」(大地)
自身のYouTubeチャンネルで話している姿同様、今のダイノジはとても軽やかで楽しそう。「もう主役はいいや」と、尖りもないように感じられる。そんな成熟した2人が若き日のダイノジに声をかけるなら、なんて伝えるのだろう。
「ここをこうしろとか言ってもどうせ同じ間違いを犯すと思うんですよ。ただ、考えたら間違いだと思うことほど今笑いになったりして、それが飯の種になったりするから、『真剣に生きろよ』って。『熱量だけは枯らすなよ。そのままいけよ』みたいなことですかね。マジでやればやるほど転んだ時に面白いですからね。そういう人を指差して笑うよりは、転ぶ人でいてほしい。と、母が常々言っておりました」(大谷)
「親の教えかよ!」(大地)