廃業の危機にあった老舗かまぼこ屋を24歳の若さで復活させた4代目女性社長の過去に迫る!
後継者問題に関心を持ったきっかけ
明治時代から続くかまぼこ屋「吉開のかまぼこ」の4代目社長となった林田茉優さん。
福岡大学経済学部に入学し、ベンチャー起業論を受講したのがすべてのはじまりだ。
あるとき、恩師である故・阿比留教授が、「痛くない注射針」を開発した岡野工業を紹介した。
林田さんは革新的で優れた技術だと思ったそうだが、それからすぐに岡野工業が廃業したというニュースを目にした。
理由は、「後継者不在」だった。
林田さんはいても立ってもいられず、社長の岡野さんに会いに行くことにした。電話と手紙で根気強くアポイントを入れ、なんとか東京で岡野さんに会うことができたのだ。
林田さんは岡野さんに尋ねた。「廃業に悔いはないのですか」。
「すごく後悔がある。技術の承継はどれだけいい人がいても、お金があっても、なかなか引き渡せない。長い時間かけて考え方・理念を含めて人に伝え、育てていくのが重要になってくる。それをできなかったから悔しい」と岡野さん。
林田さんは、今から自分を含めて若い人を連れてくるから、育てていけばいいじゃないですか!と提案したが、岡野さんは高齢のうえ心臓にも病気があり、指導という立場でも現場に立てないと言う。
技術を伝えられる岡野さんが、どうしても無理ならばなす術がない。気合いを入れて岡野工業に行ったが、何も役に立てなかったと思いながら、林田さんは福岡に帰った。
それから悶々とする日々が続く林田さん。調べるうちに、企業の後継者不足が深刻な状況であることを知った。
第二第三の岡野工業が廃業してしまうかもしれない。「本物」を追求している企業だけにその損失は大きすぎる。
林田さんは、なにかアクションができる自分でありたいと考えた。そして、福岡大学内で後継者問題についてのプロジェクトを発足することにした。
吉開さんに出会い、引き継ぐ会社探し
そのプロジェクトの内容は、福岡の企業の社長に直接話を聞くというもの。皆で50社くらい回ったという。
しかし、「高齢だけど死ぬまで仕事するぞ」というパワフルなスタンスの経営者が多かったそうだ。
状況は深刻かもしれないが、後継者がいなくて困っているという自覚がある人はなかなかいない。
林田さんは企業の経済事情を知っていて、後継者の状況もわかる人のもとを訪れて話を聞いた。
そこで知ったのが、「吉開のかまぼこ」で、林田さんはすぐに電話をかけた。当時の社長・吉開喜代次さんは工場に行っていて留守だったため、奥さんが電話に出た。「福岡大学の林田と申します。休業して一年らしいですが、かまぼこ作りにこだわりがあると聞きました。なぜ休業したかと、これからどうしていくかについて、お話を聞きたいです」。
奥さんは楽観的な方で、「工場行ってていないけど多分良いと思うよ」と言ってくれた。
そして、林田さんは大学4年の8月にみやま市へ社長に会いに行った。3代目社長の吉開さんは、74歳の時、繁忙期にずっと製造に立っていたら倒れたという。
しかし…吉開さんには後継がいなかった。
吉開さんはやむなく廃業しようと思っていたのだが、休業から1年経っても、「吉開のかまぼこの復活」を願う声が手紙や電話、メールで届いていた。
「お客様が待っててくれているなら期待に応えたい」。林田さんはそれを聞いた時、吉開さんの「良い商品を作り続けてお客様に喜んでほしい」という熱い職人魂と、誇りを持って仕事していた姿に感動したそうだ。
林田さんは誇りを持って胸を張れる仕事をしたかったため、この人を応援したいと思ったという。
当時、林田さんは後継者問題をテーマにしたプロジェクトを行なっていたが、後継者問題はあまりにも間口が広いテーマだと感じていた。
そこで、一つ事業に関わらせてもらおうとということで、「吉開のかまぼこの復活に向けてお手伝いさせてくれませんか」とお願いした。
吉開さんからも「若い人の力を貸してほしい」と言われ、工場のあるみやま市まで、片道1時間半をかけて電車で通う日々が始まった。
林田さんのプロジェクトでは、福岡の食品会社5、60社をリストアップして、メンバーが吉開のかまぼこのプレゼンテーションをし、引き継いでくれませんかと打診してていたが、「応援したい」とは言われるものの、実際に引き継ごうとしてくれる企業はなかった。
大学4年生の12月には、成果こそ出ていなかったが、西日本新聞社に取り上げられ、それがたまたまヤフーのトップニュースになった。
そこで全国の人の目に触れ、大学4年の終わりに大阪ののりの食品会社が後継に名乗りを上げた。
株式譲渡の調印式1ヶ月前に訪れた危機
林田さんは福岡の物流会社に就職。仕事をしながら吉開のかまぼこの手伝いをし始めた。
順調に話が進み、社会人1年目の終わり12月末くらいに吉開のかまぼことのり屋さんの株式譲渡の調印式を行うことが決定。
しかし、その残り1ヶ月というときに工場近隣の方々からのクレームが入った。
工場が稼働していた時、てんぷらを揚げた際の油の煙や機械の音が気になっていたという近隣住民の声が入ってきたのだ。林田さんたちは、それを解決しないと事業再開できない状況になった。
工場の移転先探しをしたが、土地代や修繕費、水を濾過する装置、機械を動かす費用だけでも膨大なお金かかるのは自明だった。それに、当然人を集めるお金や運転再開資金も含めると莫大な額を準備しなければならない。吉開のかまぼこは黒字だったが、移転はあまりにもハードルが高すぎた。2021年、林田さんが社会人2年目の4月。のっぴきならない状況に、大阪ののり屋さんも手を下ろした。
税理士からは「諦めた方がいい、次の決算6月を迎えたら解散しましょう。じゃないと吉開さんの心も疲れる。林田さんの活動が吉開さんにとって幸せなのか」と言われた。
この言葉には林田さんもショックだった。私が諦めないことが吉開さんにとって幸せなのかわからない。
そしてなにもできないまま6月を迎え、会社は解散した。
絶望に光がさす〜社長になるまで〜
その後、林田さんのもとに、吉開さんから電話が。「私はかまぼこを作りながら死にたい」。
林田さんはこの言葉を今でも印象深く覚えているという。吉開さんにとって、かまぼこ作りは仕事ではなく、人生そのものだった。
尊敬する人がそう言うのならと、林田さんは根気強く活動した。この人に、かまぼこを作りながら死なせたい。
今の工場を動かすためにはご近所の方を説得するしかない。林田さんは毎週のように工場の近所の方を訪れた。「どういうふうに油の煙や機械の音が気になっていたか、具体的に状況を教えてください」。
そして、近隣住民から聞いたことを福岡市内に持ち帰り、その問題に関する業者をあたり、どうすれば解決できるかを尋ねるなどした。
そして次に工場近隣に行った時に、その解決策や、まだ解決方法が出せていませんという進捗報告をした。
その活動をしているうちに、最初は煙たそうにしていたご近所の人にも、だんだんと本気さが伝わっていった。そして、近隣住民も解決方法を考えるようになったり、親戚に業者がいるよと言ってくれたり、玄関ではなくリビングでお茶を飲みながら話せるようになったりと、地元の協力があって問題がクリアされていったという。
最後には、なかなか話を聞いてくれなかったおばあさんから背中押されて「あんたなんしようとね、早よかまぼこ作らんね」と言われたそうだ。
そして、会社の解散から3か月経過した9月。かまぼこ原料の仕入れ先がたった一回の製造分にも関わらず、協力しますと言ってくれて、初めてのかまぼこ作りができたのだ。そこには吉開さんと大学のプロジェクトのメンバーも手伝いに来て、12名で300本のかまぼこを作った。そのかまぼこは、みやま市の直営店だけではなく、親や先生、経営者の方々を呼んで振る舞ったほか、余ったものを福岡市内の食品の企業の経営者に食べてもらった。
そしてある日、諦めた方がいいと言っていた税理士さんから「福岡のシステム会社の社長がかまぼこを食べたいと言っている」という電話があった。
林田さんはすぐにそのシステム会社の社長と会った。社長は、かまぼこを食べて林田さんの話を聞いた後、「面白い。吉開さんにも会いたい」と言った。その後、吉開さんにシステム会社の社長を合わせ、11月はじめには一緒にかまぼこ作りを行なったという。そしてその帰り道、車の中で「吉開のかまぼこはうちが引き継ぐよ」と言われたそうだ。
話は進み、吉開のかまぼことそのシステム会社は12月末に株式譲渡の調印式を行なうことが決定した。林田さんはそこから、株式譲渡の調印式に必要な契約書作成を税理士に習うなどしていたのだが、あと1週間で調印という時に、システム会社の社長から「君が吉開のかまぼこの社長にならないか」と打診された。
社会人2年目で経営経験はゼロ。こんな私が、130年以上続く会社を引き継ぐというのは無責任すぎる…。林田さんは「引き受けられません」と断った。
しかし、システム会社の社長は「4年間の休業を経ての復活はお客様の応援が必要になる。スキルや能力はチームの他の仲間が補ってくれる。でも、応援を得るにしても力を借りるにしても想いが強い人がトップに立ってないといけない。唯一諦めずにやってきたのは林田さん以外にいないじゃないか」と言った。
林田さんはそれを聞いて、社長になることを決心したそうだ。
その後、林田さんは働いていた物流会社の社長に相談した。社長は「君がやりたいならやるべきだよ。人生において君しかいないと言われることはなかなかないから。いつでもうちを卒業していいよ」と言った。
そして、すぐに退社手続きをし、1週間後に吉開のかまぼこの社長になった。2021年12月末のことだった。
林田さんにとって、吉開のかまぼこの復活はゴールではなくスタートだという。
他の後継者がいなくて困っている事業者に勇気を持ってもらえるような、一つのモデルケースになりたいからこそ、今後どう吉開のかまぼこを成長させるのかが重要になってくる。林田さんの挑戦はまだまだ続いていく。