これからの博多の文化を世界に広げる博多の“匠対談” 博多ラーメン職人 × 博多菓子製造人
〔第五回〕博多ラーメン職人×博多菓子製造人
博多一幸舎 店主
吉村 幸助さん
福岡市生まれの43歳。2004年に、博多一幸舎を創業。小料理屋を営む母親の料理を食ぺて育ってきたせいか、子どもの頃から料理が好きでよくつくっていた。趣味は「味の研究」と根っからの職人気質。
株式会社東雲堂6代目社長
高木雄三さん
福岡市生まれの45歳。大学卒業後、東京の企業に就職するも、24歳の時に4代目で父の善治さんが急死。福岡に戻り、工場での生産、営業を経験。2017年、6代目に就任。
博多の文化を守りながら食で笑顔を届けたい
吉村
ラーメンがお好きだそうですね。先ほど食べていただいた一幸舎の味はいかがでしたか。
高木
やっぱり美味しいですね。一時期、醤油ラーメンが好きになったこともあるんですが、あっさりしすぎて、結局、豚骨に戻りました。年齢的にこってりは控えるようになりましたが、「俺はまだまだ豚骨ラーメンが食べられるぞ」というのが、若さのバロメーターになっています(笑)
吉村
豚骨ラーメンヘの愛を感じます。嬉しいですね。
高木
それに、幼稚園の頃に抱いた将来の夢は「ラーメン屋さん」だったんです。未だにその思いは少し残っていますよ。
吉村
そうなんですか!いつでもお手伝いしますよ(笑)私は、(撮影で)幼少期から馴染みのある「にわか面」が付けられて嬉しかったですね。東雲堂さんは創業100年を超えられていますよね。弊社はまだ創業16年ですから、本当に尊敬します。
高木
今年で創業114 年になりますが、創った人が一番えらいと思いますよ。1から2にはできるかもしれませんが、ゼロから1を生み出すのは本当に大変です。
吉村
私も諸先輩方が作られた豚骨ラーメンを基に、個性を加えていっただけなので、ゼロから1ではないと思っています。
高木
そんなことはありませんよ。そもそも、なぜ、ラーメンだったんですか。
吉村
餃子屋で修行をしている時にラーメンの簡単な作り方を習いました。そこから自分なりにひらめきを起こし一幸舎のラーメンに辿り着いたんです。弊社は将来的に総合飲食企業を目指しているので、皮を手延ばしした餃子専門店なんかができたらいいですね。博多飯を海外にどんどん持っていくのが夢ですね。
高木
ついでに「にわかせんぺい」も持っていってくださいよ!
吉村
社長も博多銘菓の「にわかせんぺい」を海外へ届けたいという思いをお持ちなんですか。
高木
持って行けたらいいですね。でも、そもそも県外では「二〇加」の読み方すら周知されていないですし、もっと国内で知ってもらう必要性も感じています。博多名物=豚骨ラーメン、明太子、水炊きと同じぐらい、「にわかせんぺい」を知ってほしいですね。
吉村
「にわかせんぺい」は類似品のないオンリーワン商品なので、それもできそうですね。約100年同じ商品を守られてきた背景には、代々受け継がれてきた経営理念があるんでしょうか。
高木
「おかげさま」という感謝の気持ちですね。お客様はもちろん、社員、材料を卸してくれる業者の方々への感謝も忘れてはいけないと教えられてきました。また、5 代目を務めた母はいつも「身の丈にあったことをしなさい」と言っています。背伸びしなくていい。会社を大きくしようと思わなくてもいい、と。
吉村
それが長く続く要因なんですね。私なんか、こけそうなぐらい背伸びしていますよ(笑)
高木
私は就任して3年目ですが、現状維持もそれはそれで心配になりますよ。吉村社長のチャレンジ精神に触れていると、背伸びする大切さも感じます。
吉村
私が海外に進出したときは勢いでした。行くことが大事だと思います。行動した先にしか結果はないですし、何かの本で読んだんですが、移動距離が成長の長さなんだそうです。いろいろ見ること、経験したことが、成長に繋がると思っています。
高木
素晴らしいですね。私は出張の時ぐらいしか、歩き回りませんからね(笑)。私もゼロから1を生み出した吉村社長を見習わないといけないなと思いました。
吉村
何らかの形でも、一緒にコラボレーションできたらいいですね。我が社にとっては光栄なことですし、張りになります。
高木
そうですね!やりましょう。私はお菓子の普及と同時に、やりたいことがあるんです。
吉村
それは何ですか?
高木
少子化の時代ですが、伝統芸能の「博多仁和加」を子どもたちにも知ってほしいと思っているんです。昨年から無地の白いお面に、自分で好きな絵を描くワークショップにも参加していて、子どもたちが夢中で取り組んでいる姿を見て嬉しくなりました。博多の食だけでなく、文化も一緒に盛り立てていけたらいいですね。
吉村
やりましょう!